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雪駄の歴史とは?

雪駄は日本古来の履物ですが、最近では雪駄を作る職人が減ったことも有り、一部の業界のみで使用される状況となっています。
雪駄は草履に似ていることから草履と同じものと扱われることがありますが、雪駄は草履を改良して出来たもので基本的には草履とは全く別物となります。

雪駄の由来は諸説色々ありますが最も古く言われているものとして、千利休が織田信長に使えていたときとされています。
千利休は織田信長が安土城を築城の折に、茶の師匠として招き入れたとされています。
あるとき、利休が庭の木に水を差しているとき、足を滑らせて転倒して怪我をしてしまいました。
そのことを知った信長は、南蛮渡来の靴を履くよう差し出したのですが、茶の心得には適さないと、利休は草履に拘ったとされています。
そこで、信長は草履と靴を組み合わせ、草履の底に靴と同じように革でできた底を貼り付け、滑り止めの鋲を打ち付けた履物を作らせ、これを利休に履くよう命じたとされています。
これが、雪駄の始まりとされ、雨や雪でも滑らずに歩くことができると世間に広まったとされています。
現在でも、お茶家元では雪駄を履くのは、利休が茶会で必ず雪駄を履いたこことが伝わっています。

 

雪駄は、力士や神主などの特定の人や行事で履く履物と思っている人も多いのではないでしょうか。
西洋文化となった我が国において、草履や下駄を履く機会は非常に少なくなってしまっています。

雪駄は草履を改良してできた履物として知られていますが、その歴史はそれほど深くはないのです。
雪駄の由来は諸説色々ありますが、江戸時代に広まったと説があります。
江時のまちを守る役目として、現在の警察にあたる町奉行が置かれていました。
町奉行所に使える役人の多くは、同心と呼ばれていた人で、悪人を捉えるのが役目でした。

江戸時代の初期はまだ治安も安定しておらず、殺しや盗みなどの犯罪が横行していました。
町奉行に使える同心は悪人を捉えるために追いかけるのですが、当時の同心は草履を履いていたため、滑って転んでしまったり、悪人についていけないことが多くありました。
北町奉行大岡越前の守は同心がもっと悪人が捉えやすくするために、草履を改良して草履の底を革を付けてさらに鋲を打ち込んで滑りにくくした履物を提案したとされています。
もっとも、この改良に携わったのは、大岡から依頼を受けた平賀源内が雪駄を発明したとされています。
源内は同心が走って悪人を追いかけるとき、周囲に注意を促すため、雪駄の裏に鋲を打ち込みわざと音が出るようにしたとされ、現在のパトカーのサイレンに通じるものであります。

 

サッカーの本田選手が雪駄を履いていたことから、雪駄を履く若い人が多くなっています。
ただ、若い人は雪駄が流行りということで、履いており、雪駄本来の由来を知っている人は少ないのではないでしょうか。
雪駄は、日本に古くから伝わる履物の一つですが、その由来は諸説色々いと語り伝えられており、雪駄が何時頃できたのかは定かになっていません。

雪駄の由来の一つとして、力士が十両昇進の折に親方からまわしと雪駄が贈られる習慣があります。
確かに、十両以上の関取は皆雪駄を履いて出かけます。
ちなみに、幕下力士は、草履を履くことになっています。
力士が雪駄を履くようになったのは、江戸時代と言われています。
相撲は、江戸庶民の娯楽でもありましたが、将軍への観覧相撲もあり、盛んに相撲が行われていました。
当時の力士は、草履ばきが一般的でしたが、体が大きく体重が重い力士の場合、草履が直ぐに擦り減ったり、重さに耐えきれず破れてしまうこともありました。
それを見ていた将軍が、何とかならないかと重臣らに命じたところ、草履の裏側に革を張って補強した草履を差し出したとされています。
たちまち力のの間で使われるようになり、草履と区別するために雪駄と名づけられたとされています。
当時、草履は藁でできており草色していましたが、雪駄は畳で使われる畳草が使われており、雪のように白い履物ということで、雪駄となったとされています。